1. ホーム > 
  2. みんなで動かす > 
  3. アドボケートの声 > 
  4. 大阪の医療向上を目指して 〔全5回〕 西村 慎太郎さん

大阪の医療向上を目指して 〔全5回〕 西村 慎太郎さん

B型肝炎を発症して、患者会へ入会。会報作りに始まり、第1回がん患者大集会を成功に導く――

大阪の医療向上を目指して 〔全5回〕 西村 慎太郎さん
がん 西村 慎太郎さん
大阪府がん対策推進協議会 がん医療部会委員 日本肝臓病患者団体協議会 常任理事 大阪肝臓友の会事務局次長

 

患者が国を動かす一歩となった第1回がん患者大集会

――― 西村さんは、長年、患者アドボカシー活動をしていらっしゃいますが、そもそも、最初はどういうきっかけで活動に関わることになったのでしょうか。

私は、37歳のときにB型肝炎を発症して初めて入院しました。いまから20年以上前のことです。それから入退院を繰り返し、インターフェロン治療やステロイドの投与を受け、49歳までに12年間で10回入院しました。結局、インターフェロンは効かず、B型肝炎ウイルスはなくなりませんでしたが、いまは病状が落ち着いています。

最初にインターフェロン治療を受けたときには、まだ保険適応になったばかりだったので、入院した病院では私が初めてインターフェロンを受ける患者でした。そのとき6人部屋だったのですが、みんな肝臓病で、腹水がたまってお腹がパンパンに腫れている人や顔が黒ずんでいる人、食道静脈瘤が破裂してその治療を受けるために入院してはる人とか、重症な人が多くて、えらい病気になったなあと思いました。そして、もっと自分の病気について知りたいと考えましたが、その当時は情報がない。C型肝炎もわかっていませんでしたし、いまのように患者向けの本やインターネットもない時代でしたから。それで、約半年後に新聞で大阪肝臓友の会の医療講演会があるのを見て、その講演会を聞きに行ったのです。

一生つきあっていかなければいけない病気だということがわかって、2回目の講演会に行ったときに会員になりました。入会してすぐは、まだ会社員でしたし、あまり積極的には関わりませんでした。ところが、入会して3年目ぐらいのときに、会長に頼まれて会報作りを手伝うようになりました。うちの会は1983年に設立され、年5回会報を出しているんです。

はじめは本当に手伝っている程度だったのですが、1994年に、会長が大腸がんになってしまいましてね。抗がん剤治療などで退院できへんようになって、会長の入院していた病院と印刷所を往復するようになりました。その方は結局亡くなりましたが、それからずっと私が会報作りをやっています。1998年からは、事務所を借りたのをきっかけに電話相談をするようになりました。その前も、会長の自宅やうちを連絡先にして、電話での相談を受けていたのですが、会報など荷物も増えてきましたし、対外的にも事務所があったほうがいいだろうということになって。ちょうど、会員の中にビルを持っている方がいて、次の借り手が見つかるまで使ってくださいと言ってくれました。格安の値段で、いまもその部屋を借りています。

―― 長い患者会活動の中で、一番成功したと思われるのはどういったことですか。

2005年5月に大阪で初開催した第1回がん患者大集会です。私も運営委員の一人として参加しました。言い出したのはドクターの三浦捷一先生(故人)で、私は秘書のような形で三浦先生の活動を支えました。

三浦先生は肝がんで、その何年か前にうちの会の事務所に突然訪ねて来られました。12月28日だったと思いますけど、年末の事務所の片付けをやっていたら、突然昼から来はって、いろいろ相談を持ちかけてこられたのです。特に強調したのが、肝がんの再発予防薬「非環式レチノイド」を早く保険適応してほしい。自分も飲みたいけど、患者会で何とかならないかという話でした。

そのとき私は、「私たちの患者会では、1つの薬のために動くことはできません。だけどやり方はあります。3人以上集まったら会ができるんやから、先生とお友達と3人以上で何か会を作って、署名活動でもして、1月から始まる通常国会に請願を出されたらどうですか。まずは先生に頑張っていただいて、お手伝いできることがあれば、会としてもお手伝いするし、私も個人的にいくらでも手伝います」などと話しました。

 

そしたら、先生は本当にやりはりましてね。開業していたクリニックを事務所に、癌治療薬早期認可を求める会を作って署名運動を展開し、新聞社や国会議員、土井たか子さんや福田前首相の秘書官などにも癌治療薬の早期承認を求める文書を送りました。先生は灘高校の卒業生なのですが、同窓会の中に三浦先生を応援する会ができて、高校の同級生や知り合いの方がものすごくお手伝いしてくれはったんですよ。私も、その前から国会への請願活動をしていて段取りがわかっていましたから、その経験を生かして先生の活動を後押しすることができました。一つの薬の早期承認を求める活動には、批判もありましたが、「人に何言われてもええじゃないか、時間もないことやし命もかかっている。とにかく突っ走ろうや」と言ったんです。

それまで長い間、患者会活動をしてきた私にとっても、三浦先生と一緒にした活動はとてもいい経験でした。何より、がんになってもあきらめへんという先生の意志がすごかった。その気持ちが多くの人を動かしました。

三浦先生自身は婦人科医ですが、大阪大学医学部を出ていますので、大阪府立成人病センターの総長とか外科系の先生ともみな知り合いでした。先生は、外科で手術してくれと言ったんですけど、リンパ節にも転移していて肝機能も非常に悪いから、手術をしたら死んでしまうと言われ、手術をしてくれなかったのです。そのこと怒ってはって、死んでもかまへんからやってくれ、取らなければ絶対だめだからって。それで、自分であちこち調べられて、茨城県立中央病院の外科の先生を見つけて、そこで手術を受けました。あのとき切ってなかったら、その年に亡くなってはったのではないかと思います。

がん患者大集会をやろうと言い出したときにも、私は、どこかの区民センターで500人くらい集まってやったらええと思うとったんです。そしたら、先生が「そんなのあかん。全国の患者を何千人も集めなあかん」と言うのでびっくりしました。三浦先生の周りにはたくさんの人たちが集まって来て、いろいろな人の力で第1回の患者大集会が実現しました。ほんまに三浦先生の努力やと思います。

―――1回目のがん患者大集会は、患者ががん対策を動かす大きな一歩でしたね。

本当にたくさんの患者やその家族、マスコミも集まってくれて、三浦先生が厚生労働大臣に患者主体のがん情報センターの早期確立を求めるアピールを手渡しました。これが、いまの国立がんセンター・がん対策情報センターができる元になっています。また、ご承知のように、がん患者大集会も毎年続いています。




西村 愼太郎(にしむら しんたろう) さん

自身の肝炎をきっかけに、大阪肝臓友の会に入会、肝疾患の患者のためのアドボカシー活動を始める。 1991年より日本肝臓病患者団体協議会の常任理事を務め、2006年からは、8つの患者団体から成る大阪がん医療の向上を目指す会の運営委員としても活動。大阪府がん対策推進協議会がん医療部会委員。厚生労働省全国肝炎対策推進懇談会委員。大阪府がん診療拠点病院選定委員会委員。

更新日:2009年08月31日

このページの先頭へ戻る

私たちの使命
みんなで動かす
格差を知る
事例から学ぶ

市民医療協議会は、市民・患者による政策実現プロセスへの参画を支援しています。