どこに住んでいても納得いくがん治療を 〔全4回〕 濱本 滿紀さん
母親の生活を支えたがん治療。納得いくがん治療がどこでも受けられる社会を目指して――
濱本 滿紀さん- 大阪府がん対策推進計画協議会委員 癌と共に生きる会事務局長
命のバトン
--どういったきっかけで、がん対策に関わり始めましたか。
21年前に父親が多発がんで、7年前、母親が大腸がんで身罷りました。そして、3年前には、私がいまでも働いている会社の社長だった親友を、やはり大腸がんで亡くしました。
母は、大腸がんだとわかったときに、余命1か月で手の施しようがないといわれました。私は何とかしたいと思って大阪で5つの病院を回りましたが、結局、東京で"さじ加減のきいた"抗がん剤治療をしていたある先生の相談室へ行って治療を受けました。68歳で身罷りましたが、がんと言われてから2年間、大阪と東京を往復して治療を受けながらも、非常に贅沢な時間の過ごし方をしたと思います。
母は、カウンター10席ほどの小料理屋を営んでいたのですが、年中無休で、手料理を食べてもらいながら、お客さんと話をする、それを最後まで続けたのです。娘である私としては、旅行もしてほしいし、思い切りオシャレもしてほしいし、恋もしてほしかった。でも、母にとっては、カウンターの隅に座って、お客さんとビールを飲みながら話をするのが一番好きな時間でした。
その時間を最期まで楽しめたのは、それを支えてくれた先生がいたからですが、何か特殊な治療を受けたわけではなく、世界で行われている標準的でオーソドックスな治療を日本で施されたに過ぎません。その先生は、ごくまれに、海外でしか承認されていない、いわゆる未承認薬を治療に入れ込む場合もありますが、それは、日本で使える標準治療を最大限駆使して、どうしても打つ手がないときだけです。
その先生は、何のために治療を受けたいか、何をして生きていたいか聞いたうえで治療をされます。だけど、向き合える患者の数は限られていますから、一度に45人ほどしか患者をみられない。それって、日本のがん患者の数パーセントにも満たないわけですよ。その何パーセントかの幸運を自分たちのものだけにせずに、世界で標準的な治療を日本でもすべからく受けられるように、ということで活動を始めたのが、患者会の「癌と共に生きる会」です。私も会の創立当初から、母と一緒に大阪で、未承認薬の早期一括承認を求める署名活動を行いました。母が亡くなってから、遺族会員という制度ができたので、私も会員になり、今年で8年目です。
その後、親友が大腸がんで手術を受けたけれども、Ⅳ期だとわかって、彼もやはり同じ先生の治療を受けながら仕事を続けました。私自身も、がんになったら、ベッドに縛り付けられてまで長生きはしたくない。日常生活を実り豊かなまま大切に、変わりなく一日でも長く過ごしたいと思います。「納得のいくがん治療を、どこに住んでいても誰でも受けられるようにしたい」というのが、いまも、「癌と共に生きる会」、そして、大阪のがん患者会のネットワークである「大阪がん医療の向上をめざす会」で活動している理由です。
--濱本さんが実行委員長を務められた第1回がん患者大集会は、患者ががん対策を動かし、国立がんセンターにがん対策情報センターを作り、2006年6月にがん対策基本法が制定される大きなきっかけとなりましたね。
大阪で患者会をやっていたある医師、自分のがん体験を語り、がん対策基本法を成立させた議員、未承認薬の早期承認、抗がん剤の専門医の育成などを訴えた「癌と共に生きる会」の元会長といった患者リーダーの力が大きかったと思います。
たまたまですが、私は、そのすべての方々に関わってきました。「癌と共に生きる会」元会長の在任時には、私は役員でしたし、大阪で患者会をやっていたある医師とは、大阪で「癌治療薬早期認可を求める会」を作り、先生が代表で私が事務局長をしていました。議員の方は、大阪が地元だったので、大阪の患者会の緩やかな連合体である「大阪がん医療の向上をめざす会」(以下、めざす会)ができるきっかけを作ってくださいました。
2006年8月に、大阪の患者会が集まって、チャリティイベントをしました。そのときに、その議員の方が「せっかくの機会やから、大阪でなんかしよう」と言ってくれて、大阪府のがん対策を担当している健康福祉部の人たちを呼んで、患者会との意見交換会を企画してくれたんです。その後、私は行かれなかったんですけど、東京で全国ロビイングデイがありました。そこに参加された患者会の中には大阪府との意見交換会に加わっていた人たちもいて、すごく触発されたみたいです。その方たちの呼びかけもあり、議員の方がせっかく道をつけてくださったものを途絶えさせてはいけないという思いで、8団体が集まって、めざす会を作りました。私にとっては、親友が亡くなった直後のことで、親友に背中を押されているような気持ちでした。
その議員の方は、大阪の医師から「命のバトンをもらった」と、よくおっしゃっていました。「癌と共に生きる会」の元会長とその医師の間にも命のバトンが渡されました。皆さん亡くなってしまいましたが、私は遺志を継ぐというような、そんな大げさなことは言いたくはありません。だけど、たくさんの人が持っている命のバトンのうちの1本が、かすかにここにあって、何か見え隠れしていて、でも、このバトンはどこにも行かないみたいやし、当分ここにある間は温めよう、そんな心境です。
濱本 滿紀(はまもと・まき)さん
母親の闘病をきっかけに、がん患者会「癌と共に生きる会」の設立に参加し、未承認薬の一括承認を求める署名活動、がん治療の地域格差の改善を求める要望活動などを展開。2005年の第1回がん患者大集会では実行委員長を務める。06年「大阪がん医療の向上をめざす会」設立に運営委員渉外担当として参加。07年より大阪府がん対策推進計画協議会委員。
更新日:2009年12月25日





